1: きつねうどん ★ 2016/04/26(火) 12:11:17.46 ID:CAP_USER
【誰かのために 熊本地震と自衛隊】自衛隊の壮絶強行軍 嵐の中で深夜の被災地走行、バイクで千キロ移動も
熊本地震は14日の発生から11日、死者48人、行方不明者2人、避難者約6万人を数えている。政府は25日の持ち回り閣議で、この地震を激甚災害に指定し、復旧事業への国の補助率をかさ上げする。こうしたなか、全国各地の部隊から災害派遣された自衛隊は、行方不明者の捜索活動や、被災者の支援活動を続けている。ジャーナリストの桜林美佐氏が迫った。
4月中旬の週末といえば、全国の自衛隊で観桜会や記念行事が行われる。パレードや子供向けのアトラクションなどの準備のため、徹夜作業を続ける隊員も少なくない。熊本地震はそんな時に発生した。
「まことに申し訳ありません!」
自衛隊から来賓や招待者に1件1件連絡し、中止を告げた。指揮官も自ら電話をかけた。記念行事は、自衛隊の基地や駐屯地を一般の人に知ってもらい、隊員が家族に職場を見せることができる数少ない機会だ。単身赴任の場合、遠方から飛行機や宿をとって家族が訪れる。それだけに、「中止」の決定は影響も大きい。祝賀会の食事なども当日にキャンセルすることになる。
「大丈夫ですよ…。それより(被災地の方々のために)頑張って!」
地元の商店などにとっては多大な痛手のはずだが、そんなふうに言ってくれるのは自衛隊を理解してくれているからに他ならない。駐屯地司令としてわびる最後の電話を置くと、その顔はすでに指揮官に変わっていた。
「熊本へ前進する!」
日ごろの辛く厳しい訓練の成果を発揮せよとの言葉に、隊員たちもそれまでとは違う表情になっていた。何日間、いや何週間になるか見当がつかない。泊まり込みで行事の準備をしていたため、家に帰っていない者もいた。「行ってくる」と家族にひと言電話して、たばこを買いに走ったくらいだ。積めるだけの器材を車両に詰め込み、中止を知らずに来るかもしれない一般来場者へのケアを言い残して、数時間後には出発した。
16日の午後には群馬、長野、新潟、静岡といった東部方面隊、そして中部方面隊隷下の部隊、また多くの東北の部隊も5年前の「(東日本大震災の)恩返し」だと、それぞれの駐屯地を後にした。あの時は九州から各部隊がやはり陸路で東北を目指したのだ。
到着予定は大体翌日になる、夜遅くに着き、ほとんど寝ずに活動開始だ。中には偵察用のバイクに乗る自衛官もいて、数百~千キロのバイク移動など気が遠くなるが、逆に当日のうちに九州に入った人たちは、あの大荒れの天気の中で深夜の走行をすることになった。
道路が寸断されているため大きく迂回する道のり、いつ崖崩れが起きてもおかしくない嵐の中だった。しかも、ナビがあるわけでなし、また九州に初めて来た隊員もいる。暗闇を地図を頼りに進むため道に迷い近傍の駐屯地に入る光景もあった。
しかし、たとえ午前3時であろうが、同胞を迎え休憩所を提供してくれる、航空自衛隊の基地でも給油をしてくれるなど、陸海空自衛隊がくまなくあることのありがたさを改めて実感することになった。
[zakzak 2016,4,26]
http://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20160426/dms1604260830004-s1.htm
熊本地震は14日の発生から11日、死者48人、行方不明者2人、避難者約6万人を数えている。政府は25日の持ち回り閣議で、この地震を激甚災害に指定し、復旧事業への国の補助率をかさ上げする。こうしたなか、全国各地の部隊から災害派遣された自衛隊は、行方不明者の捜索活動や、被災者の支援活動を続けている。ジャーナリストの桜林美佐氏が迫った。
4月中旬の週末といえば、全国の自衛隊で観桜会や記念行事が行われる。パレードや子供向けのアトラクションなどの準備のため、徹夜作業を続ける隊員も少なくない。熊本地震はそんな時に発生した。
「まことに申し訳ありません!」
自衛隊から来賓や招待者に1件1件連絡し、中止を告げた。指揮官も自ら電話をかけた。記念行事は、自衛隊の基地や駐屯地を一般の人に知ってもらい、隊員が家族に職場を見せることができる数少ない機会だ。単身赴任の場合、遠方から飛行機や宿をとって家族が訪れる。それだけに、「中止」の決定は影響も大きい。祝賀会の食事なども当日にキャンセルすることになる。
「大丈夫ですよ…。それより(被災地の方々のために)頑張って!」
地元の商店などにとっては多大な痛手のはずだが、そんなふうに言ってくれるのは自衛隊を理解してくれているからに他ならない。駐屯地司令としてわびる最後の電話を置くと、その顔はすでに指揮官に変わっていた。
「熊本へ前進する!」
日ごろの辛く厳しい訓練の成果を発揮せよとの言葉に、隊員たちもそれまでとは違う表情になっていた。何日間、いや何週間になるか見当がつかない。泊まり込みで行事の準備をしていたため、家に帰っていない者もいた。「行ってくる」と家族にひと言電話して、たばこを買いに走ったくらいだ。積めるだけの器材を車両に詰め込み、中止を知らずに来るかもしれない一般来場者へのケアを言い残して、数時間後には出発した。
16日の午後には群馬、長野、新潟、静岡といった東部方面隊、そして中部方面隊隷下の部隊、また多くの東北の部隊も5年前の「(東日本大震災の)恩返し」だと、それぞれの駐屯地を後にした。あの時は九州から各部隊がやはり陸路で東北を目指したのだ。
到着予定は大体翌日になる、夜遅くに着き、ほとんど寝ずに活動開始だ。中には偵察用のバイクに乗る自衛官もいて、数百~千キロのバイク移動など気が遠くなるが、逆に当日のうちに九州に入った人たちは、あの大荒れの天気の中で深夜の走行をすることになった。
道路が寸断されているため大きく迂回する道のり、いつ崖崩れが起きてもおかしくない嵐の中だった。しかも、ナビがあるわけでなし、また九州に初めて来た隊員もいる。暗闇を地図を頼りに進むため道に迷い近傍の駐屯地に入る光景もあった。
しかし、たとえ午前3時であろうが、同胞を迎え休憩所を提供してくれる、航空自衛隊の基地でも給油をしてくれるなど、陸海空自衛隊がくまなくあることのありがたさを改めて実感することになった。
[zakzak 2016,4,26]
http://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20160426/dms1604260830004-s1.htm
【【日本各地から熊本へ】自衛隊、壮絶強行軍の実態:深夜嵐の中、バイクで1000キロ移動。休憩は仲間が待つ陸自基地で】の続きを読む